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その小説がつまらないのは、だれのせいなのか?

 「大学読書人大賞」に興味を持ってくださった方、どうもありがとう。ところで、皆さんは、自分に自信を持っていますか?

 いま、目の前に4枚のカードが並んでいて、そのカードの見えている面には、それぞれ2、3、4、7、と書かれているとしよう。じつは、伏せてある面にも数字が書いてあることがわかっているのだけど、このとき、「3の倍数が書かれた面の裏面には、奇数が書かれている」という仮説を証明したいとする。最低何枚のカードをめくって伏せた面を確認したら、仮説を証明できるだろうか?
 
 有名な問題(の亜種)だから答えをすぐ書いてしまうと、2枚(3、7)ではなく3枚(2、3、4)である。たとえば2をめくってみて、もし6なんて書いてあったとしたら、3の倍数(6)の裏側に偶数(2)があることになり、仮説は棄却される。だから2や4は確認しなくてはいけない。いっぽう、7をめくってみて2が書いてあったとしても、仮説には別に抵触しない。

 これに正答したかどうかは重要ではない。私たちが直観で出す答え(奇数という言葉につられて7を選ぶとか)というのは、往々にして間違っていることが多い、という、ごく当たり前のことが、ここでは言いたかった。あまり直観に自信を持たないほうがいいのだ。

 さて、なんでもいい、なにか小説を読んだとき、もっと一般的に言えば芸術作品を受容するとき、私たちはよく「つまらない」という感想を持つ。そして、そんな「つまらない」ものを世に出した小説家、あるいは出版社に対して、なにか糾弾の言葉をぶつけたくなることもあるだろう。私たちと小説との出会いは、いつもいつも幸せな形であるわけではない。
 しかし、こういう態度は、じつは2つのことを前提としている。
・その小説のなかに、「つまらなさ」が存在する(あるいは「おもしろさ」が存在しない)、と言える。
・その小説のなかに何があるかを、私は正確に発見することができる。
さて、いっぽうで、私が「つまらない」と感じる小説を「おもしろい」と感じるひとは、ほとんどいつもどこかにいる。そうすると、1つめの前提が正しいとすれば、そのひとは私が発見した「つまらなさ」を発見できなかった、ということになる。私が見つけ出した窓枠のホコリを、彼らは見つけられなかった、というわけだ。
 しかし、「つまらない」と思った次の瞬間、いつも私は思うのだが、なぜ、それほどの自信を持って、私のほうが眼がよい、と言えるのだろうか。じつは私のほうが「おもしろさ」の発見に失敗しているのではないか。
 もっと言えば、小説のなかに「つまらなさ」「おもしろさ」が存在する、という1つめの前提は、ほんとうだろうか。私たちはいまだかつて、ページのあいだに挟まっていた「おもしろさ」にあいさつをしてもらったなんて経験はないはずだ。目次から奥付まで、どこを探しても、「おもしろさ」を発見して捕まえて標本にすることはできない。
 もちろん、小説を読んで「おもしろい」と私が感じたのはたしかなのだから、小説のなかに「おもしろさ」が存在しないとしたら、「おもしろさ」は私の頭の中にあることになる(脳内彼女みたいだ)。もしそうなら、「つまらなさ」を感じるような私の気持ちをあやしむことで、私を改造し、「おもしろい」と感じるようにできるのではないだろうか。
 その改造手術は、もう少し具体的に言えば、その小説の「おもしろい読みかた」を発見する、ということになるだろう。もちろん、先ほどのパズルとちがって、小説を読んだ感想に正答も誤答もないから、改造手術をせずに「つまらない」と思って済ませたってだれもそれを「誤」読だと言うことはできないけれど、自分の直観「つまらない」を疑うことで、その小説がおもしろくなる、とすれば、直観なんて信じないほうがおトクなんじゃないだろうか。
 それに、「おもしろい読みかた」というのは、私以外にも有用である可能性がある(たとえば、売れる)。この「大学読書人大賞」の特徴のひとつは、いろいろなひとの「おもしろい読みかた」がいっせいに紹介される、というところにあると思う。ぜひ、あなたの頭の中の「おもしろい読みかた」を紹介してほしい(私の頭の中の彼女を紹介します、ってわけだ!)。そうすることで、候補にあがった5作品は、いままでよりもさらにおもしろくなるはずだから。

......と、きれいに煽ったあとで、私は不安になる。べつに、「読みかた」にも生ずる読みの複数性、という無限後退そのものを心配しているわけではない。それはたとえば功利主義寄りのプラグマティズムなどで処理すればよいし、興味があるとすればそこに現れる差延を使って何を思考するかだ。そうではなくて、ここでの問題は、批評と小説との関係にある。
 つまり、「おもしろい読みかた」というのは、その読みかたがおもしろいというだけではないのか。それでは小説はただのダシではないか。小説のなかから、おもしろく読めるところだけを随意に抽出してきておもしろく論ずる、というのは、批評に忠実な批評、おもしろい批評ではあっても、小説に忠実な批評ではないんじゃないか。
 とはいえ、小説に忠実な批評というのがどんなものなのか、私にはよくわからない。高橋源一郎さんは、どこかで、小説の批評をするためには小説の全文を引用しなければならない(そして意見を書き、応答となる小説を書かなければならない)、ということを書いていたと思うけれども、私なりにそれを応用して言うならば、小説に忠実な批評というのは、その小説のすべてを引き受ける批評なのではないかと思う。
 要約をせず、読みやすい数行を抜き出すのでもなく、その小説に書いてあるすべての言葉に対してなにかを言うこと。その小説になにが書いてあるか、という問いには絶対に正解はないけれど、その小説になんという言葉(文字)が含まれているか、であれば、それはテクストの形でとりあえず共有可能だ(ほんとうは、ちょっと問題もあるけれど)。その文字列のすべてを批評すること、おもしろく読むことがどれほど難しい一文であってもおもしろく読むこと、こういう作業はたいへんだが不可能ではないはずだ。私たちは、「つまらない」小説をもおもしろく読むことを選択したのだから、その意気を文や語にだって適用しない理由はない。この世に「おもしろい」ものを増やせる職業は、小説家ばかりではないのだ。

 ただし、こう考えてみると、批評の自立性とか、「私」の自立性とかを、疑い忘れていたような気がしてくる。つまりこうだ。
・そもそも、小説と批評とは、そんなに違うものなのか?
・その小説がつまらないのは、おれのせいなのか?

(渡辺)