1000の小説とバックベアード

  • 『1000の小説とバックベアード』

  • 佐藤友哉
  • 新潮社
  • 1,575円(税込)
  • 2007年3月
  • 「片説家」は、小説家と違って個人のための物語を書く集団。その片説家をクビになった僕のもとに、女性が現れる。彼女は、失踪した彼女の妹のために書かれた「片説」の入手と、僕に「小説」を書くことを依頼してきた。

最優秀推薦文

佐藤友哉の「僕」殺し

推薦文No.4-1
早稲田大学現代文学会

 あなたはどのように読むのだろうか? この作品の語り手、「僕」の読みのしかたを検討しながら、この推薦文を始めよう。

 「片説家」である「僕」は、書き手と書かれた小説とを切り離して考えることができない。作中で反復される、「小説を書くような心で書いたら、それはもう、小説」というフレーズからもわかるとおり、ある文章がなんであるかは書き手によって決まる、と考えている。これはある意味で非常に貧しい読みかただ。なぜなら、それでは書き手の知れない小説は読むことができないからだ。事実、作中に登場する書き手不明の痕跡を、「僕」は読むことができない。
 たとえば、「配川つたえ」の残した片説の断片。これの書き手の発見が前半の山場になっているのだが、これに対し「僕」は、「少なくとも僕とは無関係だ」と言い放つ。
 また、物語終盤で登場する「配川つたえ」本人もそれに当てはまろう。彼女はハンドバッグの中のテープを再生することで発語をするのだが、作中にもあるとおり、その音声を事前に吹き込んだのがだれかはわからない。考えてみれば、そこに本当に「配川つたえ」が登場しているのかも怪しいものだ。何者かが「配川つたえ」の肉体を配達してきたけれども、本人の人格はそこにあるのだろうか? そういうわけで、「僕」は「配川つたえ」を見て、「この存在からは、何一つ情報を獲得できない」と断定する。ここでも、「僕」は読みに失敗している。
 しかし、「僕」にとっては、読めないことは問題ではない。「僕」は読み手ではなく書き手の側にいようとしているからだ。これは京王プラザホテルの地下図書館で「僕」が小説を読まないことに端的に現れている。そして、「僕」は書き手の意図を離れて小説が読まれることをきらい、読者を「つつむように」、すなわち想定外の反応をされぬよう包囲して書けば、意図がそのまま読者に伝わると信じている。
 さらには、地下図書館に監禁された「僕」は、誤読されえない言葉を手に入れる。それは『言語』と呼ばれ、聞いた者から「自動的かつ機械的な心身の変化」を引き出す、「無理に日本語に変換した場合、どうやっても発音できない言葉がいくつか残る」ものである。いわば呪文だ。この『言語』は、解釈者の持つコードにまったく一致しないので、そもそも解釈できない。送り手が決定した呪文の効果が受け手にそのまま届くことになる『言語』は、誤読を排除したい「僕」にとって理想的だ。
 ただ、いかに理想的とはいえ、小説家になりたい「僕」にとっては、ナンセンスな『言語』は扱いづらい。そこで、地下図書館を脱出した「僕」は、より洗練された『言語』を手に入れることになる。すなわち「配川つたえ」の使う『言語』だ。彼女はDVDの映像など、一見べつの意味を持つ『言語』を使うことができる。終盤、「配川つたえ」の「言葉を耳にした瞬間」、理由もなく「やる気」を出す「僕」は、新たな『言語』を受け入れたのだ。これは、表層的な部分に隠された唯一の真の解釈がある、という読みのしかたに相当する。
 こうして、「僕」は多幸感の中で結末を迎えるが、その結末部分で文字となって流れていった「僕」が、「浄水場」の「フィルター」を通過できなかったことを見逃してはならない。「僕」という書き手、または書き手が意図した"真の意味"など、時代の変遷という「フィルター」にとっては不純物にすぎなかったのだ。時代を越えて循環できるのは、いかなる誤読も受け入れる表層的な部分のほうだったのである。
 このように、この作品は、「小説」の支配者たらんとする「僕」の試みが最後まで挫折し、自由な読み=誤読の可能性が残りつづける、という物語としてまとめられよう。唯一の正答の教養を怪しみ、自ら新たな可能性を探ることこそ、大学で学を営む者=大学生に求められる資質である。無論この推薦文も誤読の1つに過ぎない。新たな可能性はあなたにも探れる。

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