AURA

  • 『AURA』

  • 田中ロミオ
  • 小学館
  • 660円(税込)
  • 2008年7月
  • その日、教科書を忘れた俺は、夜半に忍び込んだ学校で魔女と出会った――。崩壊する日常。跋扈する妄想戦士たち。そして襲い来る敵。「世界に不思議なことはあってもいいんだ」。田中ロミオ、渾身の学園ラブコメ!

「日常」にようこそ!

推薦文No.1-3
東京大学SF研究会

 現実がうまく行かないとき。充実しているはずなのに何故か心が満たされないとき。自身の小ささ、無力さを眼前につきつけられたとき。

 不安、焦り、虚無感、絶望、そういったものを感じているとき、「異世界」―ここでないどこか別の場所―を夢想し、またそこへ行きたいと願ったことはきっと誰にでもあるでしょう。しかし多くの人は、その思いを無視したり心の奥に抑えつけたりなどしてこの「現実」の世界を過してゆくことを選択します。そしてもし、この平凡な「日常」―多くの人間が生きているこの世界―を忌避し、あくまでも「異世界」を指向するとは、いったいなにを意味するのでしょうか。

 「邪気眼」というネットスラングがあります。邪気眼とは魔眼の一種ですが、この文脈ではそれだけに限らずいわゆる魔法的なもの・非日常的なもの一般を指します。
 そしてそういったものが自分に属している、あるいは自分が属しているかのように振る舞い、後になって自身の行動を振り返り恥ずかしく思い、心に痛みを覚えるといったような一連の行動、経験、そのようなものを漠然と示す言葉のようです。

 「邪気眼」行動をした時に恥ずかしく思うのはなぜなのでしょうか。恥ずかしいと感ずるのは他者の目を意識してのことです。強い人間ならば他者の目を意識する必要がないので、恥ずかしいとは感じないはずです。多くの人間はそこまで強くはありません。他者に自分がどう思われているかは重大な関心事となります。「邪気眼」の意味するところは日常の非承認です。現実からはどうやっても逃れられません。それならば最初から認めてその中で自身ができることを尽すのがオトナの態度だとされています。つまり「邪気眼」はオトナの態度が取れないこと―すなわち自身の未熟さ―を自分から宣言していることになり、これは恥の感情に繋ります。

 結局のところ、問題は自分自身の「強さ」を把握できていないことにあると考えられます。物語の主人公は確かに我々から見ると非日常を生きていて憧れの対象となります。しかし主人公からしてみれば、その非日常を生きるために我々にはない「強さ」を必須のものとして求められているのです。果して自分は非日常に耐えられるほどの強さを持っているのか否か。自身の「強さ」を正しく評価して日常に甘んじるならばそれはオトナの態度ですし、「強さ」を過大評価してあくまで非日常を求めるならば、それは「邪気眼」に繋がることもあるでしょう。

 『AURA』は読者に勇気とカタルシスを与えてくれます。
 ―強がってもいい。自身の弱さを認められるほど強い人はそうそういないから―
 ―強がらなくともいい。弱ければ弱いなりの非日常があるのだから―
 作中には沢山の実在のゲーム、ライトノベル、雑誌などがアイテムとして登場します。そのため読む人によってはかなり読みづらいでしょうし、十年もすればますます読みにくくなるでしょう。しかしそのような作品だからこそ、逆にこの場で推薦する価値があると考えます。
 『AURA』は普遍的な内容を、今この時しか通用しえない表現で描いています。
 今しか読めないものだからこそ、今読むことに価値がある。
 ためしに一度手に取ってみるのはいかかでしょうか?

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