告白

  • 『告白』

  • 湊かなえ
  • 双葉社
  • 1,470円(税込)
  • 2008年8月
  • 女性教師が我が子を亡くしたある事件を軸に、さまざまな憎悪が絡み合う陰鬱なストーリーから浮かび上がるのは、現代社会への問いである。倫理観とは何か。人を裁くとはどういうことか。湊かなえ、衝撃のデビュー作。

最優秀推薦文

聞いて、聞いて、聞いて、救って

推薦文No.2-1
東京大学新月お茶の会

 この本の中で描かれる告白は我々が知るようなものとは異なっている。
 たとえば聖アウグスティヌスの告白は、全知全能の神に対して己の罪を懺悔し帰依を示すものであった。あるいはルソーの告白は自らの人生を赤裸々に語ることでありのままの人間の姿を示そうとするものだった。しかし、この作品における告白は呪いである。
 告白は中学校の教室で始まる。担任の教師がクラスに居並ぶ生徒たちの前で、先日学校内で亡くなった自らの娘が事故死ではなく、クラスのある生徒によって殺されたのだと語る。そして殺人者に対する自らの復讐をも。この告白は罪の告発であり、それは平凡な日常を一変させる殺人という酷薄な真実だ。しかし場を支配すべき教師は罪を教室に残し自らは立ち去ってしまう。
 裁くべき神のいない教室の中に取り残された子供たちには殺人という罪はあまりにも重く、彼らはそれを持て余し、周囲の大人たちをも巻き込んで、けれど誰も赦しを与えることは出来ず、誰かに罪を押し付けようとするが、その醜悪な争いは新たな悲劇を引き起こしてしまう。罪に対して子供を殺した「犯人」やクラスメイト、新任の教師や保護者たち、つまり誰もが何らかの態度をとることを強いられ、ある者は罪に怯え、ある者は犯人を糾弾し、またある者は犯人に同情し、みなが狂った事態の中に巻き込まれ、悲劇と告白は連鎖していく。
 この告白はルソーや聖アウグスティヌスのものとは決定的に違っている。まず自分ではなく他者の罪を訴えている。それは告解ではなく呪詛の言葉であり、罪を改め、終わらせるのではなく復讐を要求し、新たな罪を生み出していく。
 加えて、すべての告白者たちは彼らにとっての真実を語っているがそれは実は主観によって捻じ曲げられた、欺瞞に満ちたものである。ある者の告白から現れる真実は、後続する章の告白によって否定される。告白者の独りよがりな願望が、いかに事実を都合よく改変し、他者のそれとは違う世界に存在することを可能にしているか。あたかも彼らは事実をではなく、自分の醜い心をこそ告白しているかのようだ。本作は六章で終わっているため一応はそこでの告白がもっとも真実に近いものとして見られるであろうが、それが客観的真実である根拠はどこにも無く、我々には存在しない次の章で六章の世界が塗り替えられるのを想像することも許されている。はたして真実はどうであったのか? 結局のところ告白が真実であるかは聞く者にはわからない。神ならぬ我々読者にはただ文字列から告白者の心を読み取ろうと憶測を巡らせることしか出来ない。
 この作品の告白は不確かである。それは語り手が嘘を吐いていることのみから来るのではなく、人の持つ愚かさ、誤解やすれ違いや無知に由来することも多い。それらがなければこの告白と悲劇の連鎖はどこかで止まっていただろう。この作品の登場人物は愚かで悪意に満ちている、つまり人間的である。誰もが極めて卑俗な考えに囚われ、運命の綾に操られ、自分勝手に行動しながら結局は自己を破滅へと導いてしまう。
 「最後の審判のラッパはいつでも鳴るがいい。私はこの書物を手にして最高の審判者の前に出て行こう。」
 ルソーの言葉であるが、このように言える強い人物はこの作品の中に一人もいない。神の使徒アウグスティヌスのようにあれたなら、あるいは自由な近代人ルソーのようであれば、罪を赦すことも、自分の思いを伝えることも出来ただろうに。ここにいる人々は弱々しく、不安で、恨みや恐怖に囚われており、罪を犯すことも赦すことも復讐することすらも満足に出来ずに、殺人の成否を偶然や他者に委ねたり、自らの思いを屈折した形で表現することしか出来ない。
 この物語は聖アウグスティヌスのように信じる神を持たず、ルソーほどに強くない人間たちの悲痛な訴えの記録である。ゆえに本書は現代の告白としてふさわしいのである。

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