好き好き大好き超愛してる。

  • 2009大学読書人大賞 受賞作品

    『好き好き大好き超愛してる。』

  • 舞城王太郎
  • 講談社
  • 520円(税込)
  • 2008年6月
  • これは「恋愛と小説」の物語である。恋人を亡くした小説家と遺族の交流を描いた連作短編「柿緒」を主軸として、その間に「愛と別れ」をテーマに据えた三つの不思議な物語を挟んでいる。過去に四六判、新書で刊行。

最優秀推薦文

「祈り」の文学を感受せよ

推薦文No.3-3
立教大学文芸思想研究会

 今日、読書の意味が見えなくなっている。昨年末から吹き荒れている世界大不況、その暗澹たる世の中で、物語の快楽に浸る意味はあるのだろうか。虚構の楽しみに時間を割くよりも、生活するために実用的なビジネス書へと乗り換えた方が良いのではあるまいか。これは読書人共通の悩みだ。そもそも、物語に閑暇の慰め以上の意味があるかどうか、僕にはわからない。ないならば、実用的な書籍にシフトした方が良いかもしれぬ。
 ただ、舞城王太郎の「物語」は別格だ。断言しても良い、舞城作品はこの御時世でも読まれるべき作品であり、そして僕たちが現実に生きている限り、舞城の「祈り」の文学はその輝きをやめないのだと。そして、『好き好き大好き超愛してる。』は舞城作品の中で第一級のものだ。「愛は祈りだ。僕は祈る」そんなキャッチーで、どこか照れ臭いフレーズで始まるこの作品はその中心に位置している。というのも、舞城の多くの「物語」に宿る「祈り」の力を、この作品は主題にしているからだ。
 舞城は綴る、「過去について祈るとき、言葉は物語に」なり、「この祈りこそが奇跡を起こし、過去について希望を煌かせる」と。人が過去を祈るとき、それは絶望の裏返しでもある。もう訪れてしまった悲劇に希望を抱くことはできない。せいぜい、宏大な空を仰いで嘆息を漏らすくらいだ。しかし、この過去への嘆息が「言葉」を持てば「祈り」となり、「時に小説という形」をとって、「物語や小説の中で」「その願いを実現させる」のだ。だから、舞城の「祈り」の文学は冷酷なリアリズムである。悲劇から決して目を逸らさず描ききる。けれども、そこには常に「希望」の煌きがある。虚構の「物語」だからこそ、姿をとれる「祈り」。それは陳腐な救いではなく、悲劇の中でこそ煌く明 るいパトスだ。
 『好き好き大好き超愛してる。』は若い小説家を主人公にした「柿緒Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ」を軸に、「智依子」「佐々木妙子」「ニオモ」の三つの小品で構成されている。どれも、表題の女の子たちを「愛し過ぎるほど愛して」しまった男の子たちの話だ。そして、智依子はASMAと呼ばれる害虫に全身を蝕まれて助かる見込みもなく、「佐々木妙子」に至っては、主人公三坂ツトムの全く知らない赤の他人なのに、彼は妙子探しをせずにはいられない。セカイ系を模した「ニオモ」も例にもれず悲劇であるし、主旋律のヒロイン柿緒は早々と病死してしまう。けれども、「柿緒」における悲劇の主題は、三文小説にありがちな恋人の死それ自体ではなく、恋人の死後をどう生きるかにある。想像してみて欲 しい。行き先を失った愛は、最愛の人への気持ちは過去となって記憶になる。「記憶もまた、時間を経れば曖昧になり、空想と変わらなくなる。物語になる。」そして、「僕」は「柿緒についての物語に搦めとられている」。互いに愛し過ぎてしまったがために、失った「今でも柿緒を探している。愛している」のだ。これ以上の愛の悲劇が一体どこにありえよう。
 しかし、舞城の「祈り」の文学は、救いもなく描きだされた悲劇を包み込み、なおも「希望」が暖かく煌いている。残念ながら、僕はそのパトスを伝える術を知らない。だが、読めばきっと感じられることだろう。
 僕たちは学生だ、読書人だ。だが、それらは二義的で、さして重要なことではない。僕たちは、何よりもまず現実に生きる一人の人間である。ならば、いつか必ずや悲劇の壁に突き当たることだろう。その時、現実から目を逸らさず、どこまでも立ち向かうことができるだろうか。――僕にはわからない。けれども、舞城は苛烈な悲劇をも肯定する勇気をくれる。「祈り」のパトスは、僕たちの生きる勇気となる。そこにこそ、舞城を読む意味があるだろう。今だからこそ、そして、これからも。
 実用性にも娯楽性にも収まりきらない、舞城の「祈り」のパトス、生を肯定する勇気。ぜひ、この作品からそれを肌で感じて欲しい。

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