容疑者Xの献身

  • 『容疑者Xの献身』

  • 東野圭吾
  • 文藝春秋
  • 660 円(税込)
  • 2008年8月
  • 不遇の天才数学者、石神は、自らが密かに思いを寄せる隣人の殺人を知り、彼女のために完全犯罪を仕組む。これに挑むのは、石神の旧友であり、物理学者の湯川。天才同士の攻防から意外な結末まで、見所多し。

最優秀推薦文

犠牲と献身の語彙的差異における物語解釈の試み

推薦文No.6-2
PICASO~東大・早慶ベストセラー出版会~

 人がなにかを犠牲にするとき、その人はなにを思うだろうか。
 この小説の主人公、石神は、なにを思っていただろう。愛する人の役に立てる幸福か、愛する人の行動を支配する悦楽か。叶うはずも、表出するはずもなかった恋が、彼を動かした。
 天才ガリレオにも匹敵する頭脳を持ちながら、平凡でしがない人生を送る石神。彼の人生は曇り続けていた。自殺するほどに暗い人生へ、光を差し入れた人こそ、隣人である花岡の母子だった。不幸に追われ、暴力的な夫に追われ、とうとう殺人を犯した靖子と美里の母子。そのミステリー小説にはありふれた殺人が、母子と、そしてただの隣人であった石神の人生を大きく変えた。
 愛する人のため、人はなにを差し出せるだろうか。
 彼が差し出したものは、自分が持てるすべてだった。その頭脳をもって母子をかばい、殺人の後始末を請け負い、そして、母子の幸せのため、彼は自分の人生を差し出したのだった。
 愛する人のために死ぬ事ができるか、という問いは陳腐だ。死の先にはなにも残らない。それは、相手に自分の死を背負わせるだけの自己満足でしかない。彼が差し出したのは自分の命ではない。愛する人のために、彼は自らが罵声を浴びること、軽蔑されること、世間すべての批難をあびること、後の人生を暗い塀の中で過ごすこと、そのすべてを厭わなかった。そして、なんの見返りも求めなかった。彼の恋は、彼が人生のすべてを捧げた恋は、秘めたままで実らずに終わる。
 このあまりにも深く、一途な愛に、人は心動かさずにはいられないだろう。献身というにはあまりにも一徹すぎる彼の行動は、人の心を震わせる。しかし、物語は、我々がただ涙の中にこの愛を消費していくことを許さない。天才の計画は、天才によって見破られる。彼が捧げたすべては、無へと帰す。
 この小説を通し我々は、なぜ、と問わねばならない。なぜ彼はこれほどに迷いないのか。そして、なぜ彼の計画は崩れたのか。その答えは共に、人の心の中にある。
 すべてを犠牲に差し出すことを決めたとき、石神はなにを思っていただろうか。あらためてその心情に思いを馳せるとき、人は心の温かな部分に気付くだろう。誰もが生まれ持って、日々のニュースに埋れていたそれに気付くとき、この物語はあなたの人生の中で、大切な物語になる。
 これほどまでに、残酷でありながら温かい、人の心のような小説はないのだから。

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