ボトルネック

  • 『ボトルネック』

  • 米澤穂信
  • 新潮社
  • 500円(税込)
  • 2009年10月
  • 亡くなった恋人を偲んで訪れた東尋坊で、ぼくは誘われるように断崖から墜落した。そこでぼくを待っていたのは、失ったもの全てが存在する「自分の生まれなかった世界」――。生々しい痛みに満ちた、青春ミステリ。

〈サキ〉に生まれられなかった、おしまいの僕

推薦文No.4-2
日本大学文理学部小説研究会

 氏の作品中でも「重い」「痛い」「激苦」と評価の高い本作であるが、ここでは本作が思春期の肥大した自己愛を残酷に暴き立てるだけではなく、むしろ現在で終わらない未来への作品なのだという解釈を提示することで推薦文に代えたい。
 ストーリーの大枠は、独りで行った東尋坊でサキの世界を見せられグリーンアイド・モンスター(GEM)により死へと誘われる、として良いだろう。サキの世界はGEMが見せたと、ひとまず解釈しておく。表面上の流れではGEMの死への誘い、岐路の夜をはじめ自分が不在で上手く回る希望の街、緑の目にさらされ、帰った僕に残されるのは昏い光。さらにダメ押しのメール、と物語の全てが彼を死へと導いているように見える。
 しかし本稿は、GEMの誘惑に対して幾つかの介入があり、それらの力がリョウを生かすべく働いていると考える。
 確かに自分の世界と同じはずなのに、行動が違えば大きく変わり得た世界の姿は、行動せずに悲惨な目を見てきた僕には辛い。自分が〈サキ〉に生まれていればと願う。しかし自分は金輪際のおしまいとして生まれたのだ。ならいっそ生まれない方が良かったと考えるに無理はない。しかしサキをGEMの手駒であるとするには、彼女は僕に構い過ぎる。彼女は僕に何度も想像力と言い、その度に若干異なった意味合いを帯びるが、共通するのは「考える」ことだ。次の展開を推測し、あり得る可能性に思いを巡らし、望む可能性のためにどう行動するのがより良いか検討すること。サキはそう僕に訴えかける。サキの世界では僕はそれを正面から受け入れられず羨み眩しがるばかりだが、それをもってGEMの手と考えるのは早計だ。サキの行為自体は、充分僕を救おうとする働きかけとなっているから。そうでなければ、どうして終盤サキは僕に言い返されてあんなにも狼狽えられるだろう?
 そして川守くん。彼は作中最大の謎と言っていいが、恐らく川守は名前ではない。全て名はカナで統一され姓も初出時にはルビが振られている。すると、さらにGEMの手のものでないとすれば、いささか想像力の飛躍を許されるならば、彼の役割は冥途の川の渡し守だと考えてもそう突飛でもないだろう。GEMの死への誘惑にふらつく僕に忠告するのだ、死に与る者の一員として。GEMに気をつけろと。それもGEMが見せる夢の中で! 
 それでも僕はついに「もう、生きたくない」という。ここで元の世界に帰ったのはGEMが思惑に適ったので戻した、と考えても不自然ではない。しかし、一度呼びかけ崖際でふらつかせたGEMがなぜこんな迂遠な事をしたのか、しかも終章での「やっと」には待ち焦がれた感がある。ここで浮かび上がるのが逆の可能性、これはGEMではなくサキ=ツユが見せた夢であるという可能性である。彼女が僕をGEMから守るべく窮地でとった苦肉の策だったというわけだ。それを破るためGEMは「どく」を吹き込み続け、ついに生を拒む発言をさせた、とすれば「やっと」という言葉にも説明がつく。終章GEM=ノゾミに誘われ柵を越えようとする僕をツユの電話が止める。ツユは僕に想像を訴え、僕はそれを拒否するも柵を越えることは躊躇する。この電話以後、「一番恐ろしかった」曲がりくねった遊歩道は「解放としか思えなかった」昏い海と等価の選択肢にまであがっている。いよいよ失望の死と絶望の生の二択を迫られ、送られてくるメールさえ決して僕を死へと追い落とすものではない。「帰ってこなくて構いません」は絶望の生からの解放ではなく、失望の海から絶望の生への絆なのだ。僕は生き残る、それは辛く絶望に満ちて楽しいものではないだろうが、死というまたしても安易な解決を求める僕を打ちのめす希望の光なのだ。だからこの光はもはやサキのように眩しくない。昏い光なのだ。しかし昏くともそれは僕を生かす光には違いない。
 しかし僕はまだ世界の狭い高校生でしかない。これは若者の物語だ。本作はまだ皆さんが若いうちに読んでしまわねばならない。

推薦文一覧へ戻る

候補作品