ボトルネック

  • 『ボトルネック』

  • 米澤穂信
  • 新潮社
  • 500円(税込)
  • 2009年10月
  • 亡くなった恋人を偲んで訪れた東尋坊で、ぼくは誘われるように断崖から墜落した。そこでぼくを待っていたのは、失ったもの全てが存在する「自分の生まれなかった世界」――。生々しい痛みに満ちた、青春ミステリ。

大人への正統な階段

推薦文No.4-5
いわき明星大学文芸同好会

 若さとはいつのことを指すのだろう?
 その問いが内側からくる私たちは、まさにその若さの只中にいる。『ボトルネック』とはそのような話である。
 この作品は自分が存在しない世界にきてしまった青年の話である。自分が存在しない世界。そんなことを想像することはままある話だろう。しかし、その世界にいることによって、自分の存在価値を否定されてしまったら、否定されたと感じてしまったら。青年は絶望した。それがこの話の骨子だ。
 青春というものが、美しく感じたり、懐かしく感じる。そういうことを私たちは体験できない。その体験がやってくるのは、自分が大人の側に立ってしまったと感じるそのときだ。今のところ私にはそれがやってこない。だとするならば、私は未だ青春の中にいるのだろう。青春、若いということ。その問題は一時期の話。成長過程に起こりうるただの1フェーズにしか過ぎない。そんなことはわかってる。だが、その時期はいつ過ぎ去るのだ?いつ次の段階が訪れる?そのような時期には自分をどう客観的に見ても、出口は見えない。この物語の主人公であるリョウが最後に感じたように「自分で決められる気がしなかった。誰かに決めてほしかった」そのような思いに駆られもする。
 で、その問いに答えがでるのはいつだ?
 この物語にはその答えがない。決めてほしいと主人公がおもったときにくるメール。「二度と帰ってこなくて構いません」それが、この物語の終局だ。答えがない。果たして主人公がどうなってしまうのだろう、そのように思うまえに私たちはこう思うだろう。『私たちはどうなってしまうの?』と。読者は物語の着地点を見定めきれずに、現実から戻ってこれなくなる。
 この物語はすぐれた現実認知の話である。人はないものねだりをする。自分がこうであったらあの人はこうならなかった、自分がこうであればあの地位が手にはいったのに、といつも可能性を探ってもがく。もがいてももがいても手に入らないと諦念を持ったときに人は歩みを緩める。それが大人だ。私は青春の只中にいるのでそう感じる。あがくという、美しくはないその行為に見限りをつけたときに、人は大人になる。主人公リョウは自分のいない世界で、死んでしまった彼女が生きているのを見、両親の不仲が改善されていることを見てしまう。しかもそれを変える可能性が自分にあったことを目の当たりにしてしまう。それは幸福なのだろうか、不幸なのだろうか。現実では起こりえないことではある。だが、いつかはやってくる。自分がこうであったならば、まわりの環境は変わっていただろうにということが。この物語が優れた現実認知なのは、そのような問題提起をしながらも、結末を読者に委ねる点だ。著者がそのように結末をなげることに対しては賛否両論があるだろう。しかし、この物語が現実認知であることが重要であることを考えれば当然の処置である。現実は解答が示されることなどないのだから。
 この物語を読むことが、現実に対する解答になるわけではない。しかし、自分の立ち位置を認識をすることの重要性をあなたが感じたのなら、読む価値がある。そして、今の時代において自分の立ち位置を確認することは難しい。なぜならば、情報過多で自分の立ち位置を外部に求めればそうなってしまう。そうであることを考えれば、この物語は多くの人に読まれうるはずである。

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