ボトルネック

  • 『ボトルネック』

  • 米澤穂信
  • 新潮社
  • 500円(税込)
  • 2009年10月
  • 亡くなった恋人を偲んで訪れた東尋坊で、ぼくは誘われるように断崖から墜落した。そこでぼくを待っていたのは、失ったもの全てが存在する「自分の生まれなかった世界」――。生々しい痛みに満ちた、青春ミステリ。

「夢見る力」は「ボトルネック」

推薦文No.4-6
法政大学文学研究会

 「夢を見ることができるなら、それを叶えることができる」と言ったのはウォルト・ディズニーだったと思う。今、私たちは夢を見ているか。これから社会へと飛び出していく我々は希望をもっているか。100年に1度の大不況、天変地異、多くの著名人の死。世界は確実に様相をかえつつ、新たな時代が来ようとしている。良くも悪くもだが。
 本書の主人公、嵯峨野リョウは亡くなった恋人の弔いに東尋坊に訪れたとき、不意に強い眩暈を感じ、そのまま崖下へと落ちた。そして気付くと、自分はまた金沢市内にいた。不思議に思い家に帰ると、そこには存在しないはずの「姉」がいた。反対に、自分は存在しない世界だった。「姉」の性格は自分と正反対だった。その影響で「姉」の世界には自分が失った数多くの「もの」が残っていることに気付く。
 本書でよく出てくる言葉の一つに「想像力」がある。サキはリョウに対して何度も「想像力」の重要性を説く。サキにあって、リョウにないものは「想像力」だった。物語を追っていくとリョウが「想像力」を持たないことが、二つの「世界」に決定的に違いをもたらしていることが分かる。リョウの「想像力」の無さが、様々な因果関係で不幸な出来事を招く。主人公が徐々に、その事実に気付いていく様はなにかの刑罰のようでもある。
 「想像力」は夢を見る力である。こんな場面がある。サキが自分のスクーターを指し、「これはタダモノじゃないスクーターなんだ。どうタダモノじゃないと思う?」というような質問をする。するとリョウは「リミッターがきられてて、普通のよりも速く走れる」とこたえる。かなり現実的な答えである。これはサキがリョウの「想像力」を試した場面であった。ただ、「想像力」とは突飛なことを考えることではない。サキが「想像力」を駆使し、現実に即した見事な推理を披露する場面もある。
 サキもリョウも互いに厳しい環境にありながら、サキの「世界」は確実に良い方向へ向かっている。それはひとえに「想像力」ゆえのことである。厳しい現実を直視しながらも、夢を見ていたからである。「想像力」とは「夢を見る力」であり「直視すること」でもあるのだ。
 「青春を語る言葉には突き抜けた過剰さがある。これは言葉以外に懸けることを持たない人間特有のものだと思う」と歌人の穂村弘は言っている。この小説は青春小説であり、主人公リョウが語る言葉は過剰である。「夢」や「死」や「剣」など、たくさん出てくる。中学・高校の頃特有の現象だろう。遥かなる理想を抱きながら、現実とのギャップに絶望する。実を持たぬ理想の「世界」を夢見て、現実の世界に絶望する。青春期特有のことである。つい理想をかたるのだ。しかし、理想やぶれたとき、我々はどうすればいいのか。その時、リョウは沈黙した。なにものにもならないと決めた。彼の選んだ道がどういう結末を描いたかは、ぜひ本書を読んでいただきたい。
 今まで私が書いてきた言葉も過剰なものが多く含まれていただろう。主人公は1990年の生まれである。バブル末期のころである。いま大学に在籍しているものの多くは1990年前後の生まれであり、来年には在学生の多くは平成生まれになるであろう。我々の青春はもう終わりなのか、これからなのか、それは私にはわからない。しかし、確実に青春は終わろうとしている。では、我々は理想を夢に見て、絶望した今から何をすべきなのか。「ボトルネック」、つまり問題の根本は「想像力」にある。厳しい現実を見ながらも、夢をみるのだ。青春をかたる甘い言葉を使いながらも、今だからこそできることがあるだろう。
 奇麗事を今まで述べてきた。『ボトルネック』の物語は決して甘くはない。しかし、本書を読んだのち、語りたくなることはきれいごとなのだ。それもこの物語の魅力の一つに違いない。

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