夜は短し歩けよ乙女

  • 『夜は短し歩けよ乙女』

  • 森見登美彦
  • 角川書店
  • 580円(税込)
  • 2008年12月
  • 不器用な「先輩」は、風変わりだけど可愛い「黒髪の乙女」にベタ惚れしてしまう。珍事件も何のその、鈍感な彼女を振り向かせるべく奔走する先輩の大学生活やいかに……。味のある文体で綴られた恋愛ファンタジー!

日常の先にあるハレの物語

推薦文No.5-5
国士舘大学文芸部

 そも、未読の人に魅力を伝える推薦文であるのに、文の稚拙さ故に、作品の内容に頼らざるを得ず、結果として内容暴露が著しいことを先に謝罪しておく。以下、本文。
 夜は短し歩けよ乙女とは、正のベクトルでの日常からの離脱を象徴するハレと、その中でひらすらに空回る色恋沙汰の物語だ。
 このお話において常に中心にあり、物語を動かす原動力で、達成されるべき目標として掲げられている動機がある。それは、何事にも平凡な非モテ系理系大学生である「私」が抱く、クラブの後輩の「彼女」への恋心だ。
 「彼女」はおおよそ俗らしい感傷とは無縁の存在で、性善説的な行動原理と純粋な好奇心とを抱え、物語の中心をずんずんと歩き回る、可憐な後ろ姿をした黒髪の乙女である。そんな「彼女」の目に留まるべく、「私」は、夜の町から古本市、学園祭を経て、風邪で沈黙した京の町と、あらゆる場所を闊歩し果敢に行動するが、その大半を彼女に気付かれる事すらなく徒労に終える。これだけを書き出せば、純然たるラヴ・コメディのように思われるが、この作品において、「私」の熱烈かつ迂遠な求愛行為は、その大半が物語の入り口へ向かう契機として消費される。
 では、「私」が必死に追いかける「彼女」のもとに何があるかと言えば、そこには祭りの高揚感にも似た、爽やかなハレの世界が広がっている。また、それは、単に物語上に記述されているだけではない。「私」と「彼女」によって語られる形をとる文章と、二人の対比が施す仕掛けによって、それを読む我々にも、その世界観への合一を促してくるのだ。
 「私」は意中の乙女と懇意になりたいという、極めて俗っぽい動機で動き、訪れる出来事の悉くを思春期を過ぎた少年にように斜に構えて受け止め、結局、物語の大半で傍観者の地位に甘んじる。ついでに己を振り返るのにも、過度の自嘲を交えなければ羞恥で押し潰されそうになるという、矮小かつありがちなキャラクターで、読み手の共感を誘う。対照的に、「彼女」は同じ物語の中にいながら、その様な葛藤をまるで抱くことなく、何もかもと誰もかもに敬意を払う、無垢な人格者として描かれる。そして、自覚することすらなしに物語の主役を演じる「彼女」は、夜の町を歩けば三階立て電車を居城にする高利貸しの老人と酒を飲み比べ、学園祭に参加すればゲリラ上映される劇の主役を張り、風邪で沈黙した京の町では只一人の健常者として、その元凶に立ち向かう事になる。
 そして、その周囲には常に、物語の真の魅力であるハレの世界が展開されている。日常から離脱した感性と資質を持つ「彼女」の行く先では、天狗を自称する青年が宙を舞い、竜巻で飛んでいった鯉は空から舞い戻り、かつて売った絵本は古本市で発見され、意中の男女は運命的な再会を果たす。それらは、読み手と視点を同じくする「私」には、超常的かつ、超ご都合主義に写っている。しかし、意中の黒髪の乙女と懇意にならんとする、「私」は、物語で一番のご都合主義者になり、眼前で発生する超常現象すら意に介さず、「彼女」と己との距離を縮めようとする。その時「私」は、「彼女」が中心を歩む物語の傍観者であることを止め、この非日常の物語に欠くことが出来ない役者になる。そして、この「私」が、物語に参画する事で、「私」の視点から物語を見ていた読み手をも、絢爛たるハレの世界へと引き込む役割を果たすのだ。
 そして、人事を尽くして天命を待つ「私」と、全ての出会いを、何かのご縁と大切に扱う「彼女」が、ついに同じ舞台で出会う時、当然、2人の関係にも変化の時が訪れる。今更ではあるが、推薦文として、物語の幕にあたるその部分を暴露するのは野暮の極みだ。しかし、物語を形作ってきたハレの世界に相応しく、作中の言葉を借りれば「誰もが赤面することうけあい」のハッピーエンドである事だけは、明記しておく。

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