天地明察

  • 2011大学読書人大賞 受賞作品

    『天地明察』

  • 冲方丁
  • 角川書店
  • 1,890円(税込)
  • 2009年11月
  • 江戸時代、徳川四代将軍家綱の時、日本独自の太陰暦を作るプロジェクトが立ち上がった。その実行者として抜擢されたのが、渋川春海という碁打ち。彼の二十年にわたる奮闘・挫折・喜びを描いた新しい時代小説。

最優秀推薦文

暦を作った男、渋川春海とその息吹

推薦文No.6-1
関西大学現代文学研究部

 渋川春海と聞いて、ピンとくる人はいるだろうか。ちなみに私はすぐに誰だかわかった。たしかあの、一行の男だ。
 この『一行の男』というのは、私が高校生の時に勝手につけた愛称である。何も渋川春海だけではない、日本史の教科書に埋もれし、たったの一行だけで紹介されている偉人たちのことだ。そして彼らの印象には大抵、一種の閉塞感が漂う。この人は、算術の人。この人は、和歌の人。一行の中で凍りついた、人柄も姿もわからぬ彼ら。
 この作品は、そんな一行の男、渋川春海が行った暦作りという偉業の、喜びあり挫折ありの一部始終を書いている。だがその偉業は、日本の文化を進めただけという小規模なものではない。今作を読むまでおよそ想像だにしなかった人数の人間を巻き込んだ、まさしく泰平の世と言われた江戸時代の、無血の戦であったらしい。そして今作はこれに加えて碁や算数の塾、当時の政治や風潮などがきちんと話の中に編み込んである。歴史ファンならこれだけで、充分読みたくなるかもしれない。
 そんな魅力たっぷりの中で注目すべきは、春海という実直な人間とその奮闘っぷりであろう。暦を作るには全国を歩いて星の位置を確認する忍耐力と、高い計算力が必要とされる。聞いただけでも気が遠くなりそうな話であるが、この作品には読んでいるうちに、なにやらこちらまで奮起させるような、そんな活力がある。なんとなく春海の感情に同調してしまって、こちらがいちいち一喜一憂させられてしまう。というよりもっと、まるで 自分が春海に憑いた霊のように存在して、彼の横顔の色が変わるのを隣で見ているような、そんな近しさまで感じる。そして最大の魅力はなにより、ハッとさせられる瞬間が、文章の中のあちこちに散らばっていることである。春海が暦の真理を発見した時のあの、息をするのも許されぬ、何もかもが止まったような、時間。

 また、歴史小説をあまり読まない人にとっては嬉しいことに、この作品では登場人物があまり古風すぎるしゃべり方をしない。展開や描写もまるで映画のようにテンポよく、鮮明だ。なんてスケール。読んでいて飽きがこない。大変読みやすい作品ではないかと思う。

 『天地明察』を読むと、渋川春海とは、「暦を作った」というただそれだけの男ではないと思い知らされる。彼について語り切るには、とてもあんな教科書の一行では、足りぬ。春海にはもっともっと、魅力があるのだ。なんせ私は、この男の横顔を隣で見た。重たい刀をもてあましていつもフラフラしていて、実直で、前髪がちょっと可笑しくて――。そんな好感のもてるキャラクターに加えて、彼の感じている新しい時代への革新の兆しが、窮屈さが、悔しさが、恋心が、『天地明察』からは見事に滲みでている。長い時間の中で凍りついてしまった渋川春海が、こうして解凍されたのだ。これは事件だけを書いた歴史書ではない、と改めて感じさせる。そして日本史の教科書を読んだ時に感じたあの閉塞感など、すっかり忘れさせてしまうのだ。

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