虐殺器官

  • 『虐殺器官』

  • 伊藤計劃
  • ハヤカワ文庫
  • 756円(税込)
  • 2010年2月
  • 近未来、先進諸国は徹底的な管理体制に移行し、後進諸国では内戦や大規模虐殺が急激に増加していた。それらの虐殺に潜む米国人ジョン・ポールの影。彼の目的とはなにか? 大量虐殺を引き起こす“虐殺の器官”とは?

「いま・ここ」を捉え直すということ――SFが提示する文学的想像力とは

推薦文No.2-5
中央大学文学会

 『虐殺器官』という作品は、他ならぬ伊藤計劃というSF作家自身が保有していた「知的体系そのもの」であると筆者は思っている。それは愛読者としての根拠ある確信でもあるし、同時に「そこ」こそ(我々若い読者に)広く読まれるべきポイントなのではないか、という気さえしている。彼は我々読者に何を遺したのか。何を伝えたかったのか。そこにあるのは、「伝える」ということにまつわる、あまりにも強固な「手法」のコンセプトだ。
 フーコーとチョムスキーが出会い、小島秀夫とスターリングと押井守が交錯する、そんな物語的空間にあって、彼の採用した「手法」は何であったかというと、カットアップ手法でありコラージュでありパロディであり、それはスターリングの言葉を借りれば「文学の手法みたいなものを産業の方法というか、 工業的に生産」することであった。それは「『現代』の再生産」、つまり現代のテクノロジーやメディアが生み出す世界像を鋏でばらばらに切り取ってコラージュし、物語レベルにおいて世界を再構成するという「手法としてのSF」である、と言い換えてみてもいいかもしれない。ではなぜ彼はそういった手法をとったのか。それはやはり、その「手法」を用いて作られた物語には、「激しく流転する現在」あるいは「加速する現在」を載せ続けられるからであろう。
 進化心理学、ポスト九・一一、環境管理型権力、トレーサビリティ、テロ、紛争、虐殺、サイボーグ化する兵士、少年兵、民間軍事請負企業(PMF)――激しく流転し続ける現在において確かに存在するあれこれを「ちょっと先の未来」の地点において「いま・ここ」の延長線上として描く、それによって現在をSF的に捉え直す、それこそがこの『虐殺器官』という作品の要となる部分だ。
 とはいえ、確かにそこにはセンスオブワンダーやプロットの新味といったものはないのかもしれない。SFというジャンルにそういった向きを期待するのであれば、この『虐殺器官』は現実世界と先行作品のパロディ群にしか映らないであろう。だがしかし、特にSFという強いフォームを持っている文学ジャンルというのは、作品を作るそばからパロディであってクリシェであって、複製の複製のまた複製であるということは、同時に忘れてはいけない事実であろう。では、そういった複製=再生産を経由した「手法としてのSF」は「オリジナリティがない・センスオブワンダーがない」と非難されるべきものなのだろうか。
 筆者は「否」と考える。なぜならその「手法」は、ある種の感情やロジックを表現して伝えることには素晴らしく機能するからだ。「手法としてのSF」には、形式への自意識やアイロニー、批評意識などを、ミニマリスティックに詰め込むことが出来る。筆者は同事に、それこそSFというジャンルが提示する、極めて重要な文学的想像力なのではないかと考える。してみるに、我々大学生――若い読者はそういったパロディやクリシェのフォームを学んで、タフにそのストックを積み重ねてゆく「行為」こそが文学的「体験」として、きわめて肝要となってくるのではないだろうか。
 伊藤計劃をSF作家たらしめているものというのは、端的に言って、彼の眼を借りて見たものごとは何でも「SFに見えてしまう」ことに由来するものだ。それは「いま・ここ」が未来そのものであるからに他ならない。「いま・ここ」に対する高感度のセンサーを備え付けてものごとを見れば、それはすなわち「未来を見る」という行為と等価ではないのか、という視点をこの作品は強固に主張しているのだ。このように、それまでの自分の価値観が、世界観(=私と世界との間の関わり)が決定的に変化してしまう、そんな瞬間が読書「体験」のレベルにおいて現出する。それが『虐殺器官』という作品である、と筆者は考えている。

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