虐殺器官

  • 『虐殺器官』

  • 伊藤計劃
  • ハヤカワ文庫
  • 756円(税込)
  • 2010年2月
  • 近未来、先進諸国は徹底的な管理体制に移行し、後進諸国では内戦や大規模虐殺が急激に増加していた。それらの虐殺に潜む米国人ジョン・ポールの影。彼の目的とはなにか? 大量虐殺を引き起こす“虐殺の器官”とは?

アリスが言葉の国に迷い込むように

推薦文No.2-8
日本大学文理学部小説研究会

 アリスが言葉の国に迷い込むように、私たちは狂気と暴力の世界になげだされる。

 人類は互いにわかりあえないのだろうか。
 誰もが夢見た平和の願いは、しかし虐殺の文法が叶えてくれた。虐殺の言語。言語という器官。どんな言葉の奥底にも存在し、我々に言葉の使用を可能ならしめている能力、まさに言語そのものが。世界の言語数は三千とも六千とも言われるが、それらは単なるローカライズに過ぎない。もっと深くに潜んでいるもの。
 普遍言語・普遍文法の夢は昔から私たちを魅了してやまなかった。幾人もの哲学者や言語学者たちがその夢を追った。しかし言葉は私たちに単なるコミュニケーションツールと見做されていることに甘んじてはいない。サピア=ウォーフ仮説によれば、私たちが現実と呼ぶ世界観をはじめとしたあらゆる認識は、言語によって形成され規定制約されており、この説を採るなら違う言語を話す人々は究極的にはわかりあうことが不可能になる。あるいは言葉を統制徹底することで理想の世界をつくることも可能ではあったかもしれない。少なくとも『ユートピア』の時代、そして『一九八四年』までは。
 一方でこう唱えた者もいる。すべて言語というものは人類に共通の能力であり、普遍的にそなわっている文法がそれぞれの方法で表出しているだけなのだと。すなわちソシュールのランガージュ、下ってノーム・チョムスキーによる生成文法である。彼の説によれば次のことが言えるのではないだろうか、つまり深層文法を解き明かせれば、そしてその文法に純化した言語をしあげれば、全ての人類は互いにわかりあえるはずである、と。
 しかし言葉は単なるツールではなかった。
 
 かつて『砂糖菓子の弾丸』を撃ちつづけた少女がいた。それは言葉によって創られ許された世界だった。砂糖菓子を撃ちつづけた少女は現実に抗ったまま死んでしまったが、少女を殺したのもまた言葉のつくりだした狂気の世界だったということを私たちは見逃してはならなかった。もはや実弾も砂糖菓子もない、弾丸は弾丸だ。弾丸は撃ちぬくのだということ。撃ちぬかれたらそいつは死ぬ。それが隠しようもなく顕わになってしまった。それは言葉を甘く見ていた私たちに突きつけられた端的な事実だ。
 言葉は撃ちぬく。言葉はつねに弾丸となる。『虐殺器官』は人魚がまとっていた糖衣さえ、惨くも剥いだ。

 『虐殺器官』の世界は、『ハーモニー』へとつづいていく。それは最新のディストピアのようでいて古典的なユートピアの世界だ。はたしてそれは私たちに望ましい世界だろうか。それとも、そんな判断さえ言語の旧弊、意識の老害なのだろうか。しかし世界の紛争の数々、アフガニスタンやイラク、わけても現在報道されているエジプトのデモを見れば、作中の問題はただのフィクションとは思えない。
 とはいえ『虐殺器官』は所詮虚構の世界であることでは砂糖菓子と変わりなく、それは嘘にすぎない。しかし虚構であるとは偽であることや無価値であることではない。『虐殺器官』は小説を読む快楽だけにとどまらず、私たちに現実を見つめさせ、いかに生きていくのかと問うてやまない。小説は私たちが普段気にも留めないようなささいなことでさえ何か不安定で得体の知れないものにしてしまい、私たちが実は何も知らなかったのだと暴いてみせる。動揺させる鏡として、虚構の重要な役割の一つと言えるだろう。
 このような世界で我々はどのように生きていくべきだろうか。これからの倫理、これからの正義は?
 さいわいにして読書を楽しみとする私たちはことばでさまざまな世界と生を体験することができる。ショウペンハウアーは読書のし過ぎを頭の中を他人の運動場にしていると形容したが、ならそのまま大運動会にしてやればいいではないか。読み倒して、読み尽くして、そうしてつねに問うていこう。
 それが『虐殺器官』を読むということではないだろうか。

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