虐殺器官

  • 『虐殺器官』

  • 伊藤計劃
  • ハヤカワ文庫
  • 756円(税込)
  • 2010年2月
  • 近未来、先進諸国は徹底的な管理体制に移行し、後進諸国では内戦や大規模虐殺が急激に増加していた。それらの虐殺に潜む米国人ジョン・ポールの影。彼の目的とはなにか? 大量虐殺を引き起こす“虐殺の器官”とは?

痛みを失った戦争の代償

推薦文No.2-1
帝京大学文学研究会Literaters

 戦争はなぜなくならないかという議論は、すでに耳に胼胝ができるくらい聞いたことがある。国家や民族の政略に利害が絡む以上、摩擦が生じるのは必然だからだ。しかしその本当の訳は戦争で受けた痛みだろうと、人はそれを忘れてしまうからに違いない。誰にとっても痛みとは厄介であって、人は長年に渡りこの感覚からの脱却を模索し続けてきた。そして本書ではついにその境地にたどり着いた場合の世界のシミュレーションをしている。そこで描かれているのは痛みと引き替えに日常的になった戦争のある風景だ。
 後進諸国の紛争が増加している近未来。主人公はアメリカが新たに設けた特殊部隊に所属する青年だ。部隊の目的は主に危険な軍事指導者を、暗殺という手口で排除することである。当然主人公は高度な任務に見合うだけの実力を持っており、殺人行為も標的に対してはなんの躊躇もなく行っていく。それは要領よく淡々と。
 物語は起伏のない単調さで占められている。戦場で目の当たりにする山積みの死体も、宅配ピザを食べながら自宅で延々と見返す戦争映画「プライベート・ライアン」の冒頭も、主人公にしてみれば大差のない光景だ。
 戦闘と人体破壊の描写はリアリティに溢れる一方で、物語を一貫するのは生死の希薄性である。ハイテク装備によって暗殺任務が極限まで効率化された一方で、死ねば備品のように代替の利く部隊の隊員たち。また、紛争によってサラエボが手製の核爆弾で消滅した背景があろうと、今一危機感が持てないでいる世界中の人々の姿。いずれも無感動な質である主人公の一人称視点とSF的なガジェットの数々が、空虚な世界観を引き立たせている。
 死が特別でなくなった最大の理由。それは進む国際化が文化の特徴を薄めたことで、世界が無色透明の平面なものになったからだ。人間同士に存在する人種、国境、宗教、政治方針といった多数の境界線は衝突と友好を延々と作ってきたが、ある意味それらのおかげで人間の底無しの闘争意欲は抑制され、世界の均衡は保たれてきた。しかし国それぞれの個性が曖昧になるとこで、人々の意識は新たに「国際社会」から「人間総合社会」へと、より規模の大きな概念に変わってしまうのだ。この人類全体を一括する感覚の欠点は、権力者側の言い分を増長させるところにある。そこには最後に明かされる、黒幕アメリカのエゴイズムも当てはまる。即ち、「テロの矛先がこちらに向く前に、勝手に各々自滅してもらう」ということだ。
 本書はフィクションだが、内容は最後まで現実とはなにかを問いかけている。あの静寂に満ちた結末に空恐ろしさを覚えた読者ならきっと気づかされることだろう。個性の喪失によって人間が数字にしか見えなくなる時代に、我々の現実世界も確実に染まってきていることに。

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