虐殺器官

  • 『虐殺器官』

  • 伊藤計劃
  • ハヤカワ文庫
  • 756円(税込)
  • 2010年2月
  • 近未来、先進諸国は徹底的な管理体制に移行し、後進諸国では内戦や大規模虐殺が急激に増加していた。それらの虐殺に潜む米国人ジョン・ポールの影。彼の目的とはなにか? 大量虐殺を引き起こす“虐殺の器官”とは?

『虐殺器官』の書評

推薦文No.2-4
早稲田大学現代文学会

 あらすじは述べるまい。私が推薦したいのは、錯乱的になるほどの、戦争の感覚だから。
 虐殺器官、それは何を虐殺するのか。ここには、意思が無い、痛みが無い、死が、無い。いや、無いというのは言いすぎかもしれない。
 だが、登場人物たちを見よ。理由もわからずに民族浄化を起こしてしまった小国の指導者。科学技術によって感情も神経も痛まなくて済むようになった「ぼく」たち特殊部隊。核兵器で死体すら残さず消滅した人々。虐殺を起こすという言語を広めて回る言語学者。確かに「人間らしい」人間もいる。だが生体情報を政府に提示しない彼らは違法な存在だ。確かにヒロインは「人間らしい」。だが彼女はあっけなく物語を退場する。
 「ぼく」の世界からは、「人間らしい」意思も、痛みも、死も、いつの間にか消えている。あるのはルーティン・ワークと「頭の中の地獄」だけだ。
 そして、世界観を見よ。進歩した技術は死と生をごた混ぜにしてしまった。冷えた油まみれのピザは生気のかけらもないだろう。人工筋肉は空気に触れて腐り落ちる。病院ではどこからが死んだ状態か医師ですら説明できない。痛みのない身体はあちこちもげても死ぬまで銃撃戦を続ける。そして、技術は、責任と権利を一緒に奪っていった。言語によって良心を停止させることができるなら、誰が殺害の罪を背負えるのか。技術によって死者と生者の境界が融けてしまうなら、どうして自分が殺したと言えようか。誰の責任で人が死ぬのか。誰がどんな理由で誰の死の責任を背負えるのか。誰もが道具になってしまえば、どこにも罪は見いだせない。どこにも死は見いだせない。
 いや、死んでいる。確かに死んでいる。「ぼく」の同僚も、発展途上国の人々も、テロリストも、その他大勢の人々も。でも、名前が無い。確かに固有名詞はある。生体情報の束をまとめるための、識別番号としての固有名詞が。でも、名前が呼び起こす記憶が無い。名前が呼び起こす思いが無い。そこにいるのが誰でも、情報が私と同じなら私なのだ。だから、「犠牲者  名」と同じことで、単なる加算的なものでしかない。だから、人の死であるとは思えないし、実際そう思わなくていいようにカウンセリングを受けられるのだ。死に感じる痛みが薄らげば、死を感じることはできなくなる。
 戦争は錯乱的にあらわれる。部分だけが見える。日常と混ざり合う。殺害を繰り返すうちに、何気なく死が訪れる。なんだ、これは。戦争はそうつぶやく間に現れる。誰もが理解しないうちにやってきて、気づくともう止めらなくなっている。死ぬ。人が。いや、「犠牲者」が増えていく。技術の進歩もそれは変えられない。進んだ技術は、効率の良い処理と、情報収集の多様化と、不快の除去の進行を早めただけだった。心が、モノになる。人が、モノになる。どこまでも操作できるのなら、思いは誰のモノになるのだろう。
 「ぼく」は罪を背負えない。「ぼく」は誰かの死を背負えない。「ぼく」は母を殺した罪を背負えない。「ぼく」は、戦争の罪を背負えない。「ぼく」はどこまでも道具だし、どこまでも国民だ。「ぼく」に罰は訪れない。みんな、ただ、殺して、殺して、殺す。いや、ある操作を実行すると、生命が停止する、それを繰り返すに過ぎない。もっと技術的に、工学的に見なければならない。死は記憶されない。痛みは刻まれない。
 ただ、クリック、デリート。なのに何か残っている。澱のようなものが。それと同じことだ。そこに戦争の感覚がある。
 戦争、それは虐殺だ。いや、虐殺が戦争なのだ。そこにいるのは死にゆく誰かと殺人者ではない。そこにあるのは、数えられる「犠牲者」と、消耗していく虐殺器官。

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