虐殺器官

  • 『虐殺器官』

  • 伊藤計劃
  • ハヤカワ文庫
  • 756円(税込)
  • 2010年2月
  • 近未来、先進諸国は徹底的な管理体制に移行し、後進諸国では内戦や大規模虐殺が急激に増加していた。それらの虐殺に潜む米国人ジョン・ポールの影。彼の目的とはなにか? 大量虐殺を引き起こす“虐殺の器官”とは?

最優秀推薦文

私達は虐殺をする

推薦文No.2-7
慶應義塾大学三田文学塾生会

 本当に大切な人を守りたいと思った時、あなたはどうするだろうか? 大切で愛しくて、傷つけたくなくて、何者にも指一本だって触れさせたくないと思った時、あなたは別の誰かを犠牲にすることを、本当に躊躇しないだろうか? 究極の愛の形をこれ以上ないくらいに醜く歪んだ形で表現している作品、それが『虐殺器官』である。
 舞台は現在より少しだけ未来。買い物をするのに紙幣は要らず指紋認証一つでOK、街の中ではタッチボードでいつでも情報にアクセスできる。飛行機のシートは材質が変化するため、空の旅は至極快適。アメリカや日本などの先進国ではそんな安全で便利な生活が営まれている一方で、世界のありとあらゆる場所では内戦と民族紛争が繰り広げられている。そしてそこでは必ず虐殺が起こり、それはある国連決議によれば、「看過すべからざる人道に対する罪」だという。
 主人公「ぼく」ことクラヴィス・シェパードはアメリカで唯一暗殺を担う部隊、特殊検索群i分遣隊に所属する軍人である。彼は、ジョン・ポールという男を逮捕するようにと命じられる。その男が現れると必ず虐殺が起きるというのだ。クラヴィスはジョン・ポールを追って、チェコ、インド、アフリカのヴィクトリア湖へと赴く。何度も任務の失敗を重ねるうちに、徐々にジョン・ポールが何者なのか、彼の目的が何なのかということが明らかになっていくのである。このように、物語のあちこちに散りばめられた「謎」が私達読者のページを捲る手を急かすのだ。「謎」と言えばもう一つ、最大のものがあった。そう、この作品のタイトルである。『虐殺器官』、なんともキャッチーではないか。虐殺器官とは何か。これが物語の重要なキーワードになってくるのである。
 この作品の中では、人が無造作に死んでいく。クラヴィスはその光景を目にし、また時には、彼自身が手を下す。私達読者に伝わるその「死」の感触はあまりにも生々しく、そしてあっけない。そのせいだろうか、私は読んでいてただ胸が痛くなるばかりで、クラヴィスに全く感情移入できなかった。私もまた、戦闘に赴く時のクラヴィスのように、「マスキング」されてしまったのかもしれなかった。ジョン・ポールもクラヴィスもその他の兵士達も、人殺しには間違いない。ただし、奇妙にすら思えることに、「憎いから」殺している者は誰もおらず、誰かを守るために殺しているのだ。
 誰かを守るために誰かを犠牲にする。これが物語の中だけの話、もしくは遠い戦場だけの話だとあなたは思うかもしれない。しかし、対岸の火事を安穏と眺め、知ろうとしないことがもうすでに罪なのだ。思っているよりもずっと身近な出来事だということを、みんな普段、忘れている。例えば私は、外国製の「安い」製品を買う。今使っている物、身につけている物がどこで、どんな人達によって、どのように作られたのかという情報にアクセスすることは簡単だ。それでも、自分が外国の労働力を搾取しているという自覚には結びつかない。自分や自分の生活を守るために見て見ぬふりをしているのか? それも正確ではない。本当は見ようとしていないし、見えていないのだ。このことを気づかせてくれた『虐殺器官』を、私はぜひ大学生に読んでほしい。何かを変えよう、変えたい、という思いの出発点になると期待したいのだ。
 虐殺器官とは何か。それを明言するのはここでは避けよう。しかしただ一つ、述べておきたいのは、私達は誰もが虐殺器官を持っているということだ。愛する者のために他の誰かを犠牲にできるか。それは私達に投げかけられた永遠の問いであり、私達を縛る鎖でもある。一度気づいたからにはもう目を逸らしてはいけないのだ。
 さあ、ここで私が言葉を連ねても何も始まらない。だからまずは、本を手にとっていただきたい。『虐殺器官』の中にはスリルに富んだ物語と、向き合わなくてはならない現実が詰まっているのだ。

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