神様のカルテ

  • 『神様のカルテ』

  • 夏川草介
  • 小学館文庫
  • 580円(税込)
  • 2011年6月
  • 栗原一止は、信州松本の地域医療を担う本庄病院に勤務する内科医である。この病院でどんな患者でも診てやりたいと考え、きりきり舞いで働く一止に、大学医局で最先端医療を学ばないかと声がかかる……。

己の正しさに向かって

関西大学現代文学研究部

 「これでよい!」。そう確信できることが、周りにいくつあるだろう。人は大小様々な不安や悩みを常に抱える生き物である。上手くいかない対人関係。成績不振。体調不良。果てには今晩の夕食の献立。人が悩むべき要素は数えればキリがない。
 では問おう。何故悩むのだろう。私なりに考えた答えとしては、自らの現状が間違ったものと捉えるからだ。間違った現状を改善しようと、人は悩み、考える。そして改善された現状の先に、正しい未来があると信じている。間違いを正して生きる。人の基本的思考はこのようにできているのではないだろうか。
 では更に問おう。正しいとは何か。辞書に載っている事か。授業で教師に教わる事か。世間で常識と呼ばれる事か。どれも正解のような気もする。どれも間違っている気もする。明確な答えのないそれを、人は常に探している。悩みながら答えを探して、見つけた答えの正誤にまた悩む。そうしたループが延々と続く中、私達はどこを目標とすれば良いのだろう。
 作品の主人公、栗原一止もまた、悩める一人の人間である。地方医療に従事する彼だが、大学病院からの勧誘を受けるか受けないかで悩む。患者への処置は適切であったかで悩む。取り返しのつかない失言を発した自分を、どうしたものかと悩む。曲者たち(=患者)への対応に悩む。正しい答えが分からずに、彼はいつも頭を抱えている。
 もちろん、彼だって常に考えてばかりはいられない。時には最愛の妻に癒され、友人と酒を酌み交わし、幸福な時間に浸る。そんな時間が、きらきらと瞬いて目に見えるようだ。

 『神様のカルテ』に、性根の悪い人間は登場しない。登場人物たちは常に自らの責務に情熱を持って挑む。挫けても、立ち直る強さを持っている。彼らの一人一人がたいへん魅力的なので、彼らをもっと知りたいと、ついつい彼らの世界に首を突っ込んでしまうのだ。
 更に文章も温かみがあって読みやすいせいで、彼らの世界へ潜るのが容易なのだ。もうこれは夢中になるしかない。彼らと一緒に笑い、怒り、悲しみ、泣き、そして最後にもう一度笑いたくて、私は彼らの世界を何度も何度も何度も読み返してしまう。

 彼らが常に追い続ける「正しい答え」の在り処は、意外と近くにあることを知る。「正」という字を分解してみる。すると出てくる「一」と「止」。主人公の名前である。このことに気付いた患者の一人が言うのだ。「一に止まると書いて正しいという意味なんですね」「本当に正しいものは一番初めの場所にあるのかもしれません」と。ここで大事なのは、正しさを求めるためには一に「止まる」必要があるということだ。迷った時は立ち止まる。急いで前へ進むことを中断して、止まる。
 世間的な正しさなどは彼らの求めるところではない。「一」に存在する正しさこそが、彼らの求める正しさなのである。「一」、つまり原点。まっさらな自分。そして「正」の字を隠し持った主人公は、まっさらな自分の命ずるまま、物語の最後に心中で叫ぶのだ。「これでよい!」
 私達も、前方のみに正答を求めるのではなく、立ち止まり振り返って、初めの自分に相談してみてはどうだろうか。そして、まっさらな自分の命ずるまま、栗原一止先生の様に叫ぼうではないか。
「これでよい!」

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