伏 贋作・里見八犬伝

  • 『伏 贋作・里見八犬伝』

  • 桜庭一樹
  • 文春文庫
  • 700円(税込)
  • 2012年9月
  • 江戸では犬の血が流れる異形の者、“伏”による凶悪事件が頻発。伏狩りにやってきた猟師の少女・浜路に語られたのは「贋作・里見八犬伝」。それこそが真実の物語だった!

言葉の物語

推薦文No.16-3
関西大学現代文学研究部

 『贋作・里見八犬伝』――そのタイトル通り、この物語は世によく知られた『南総里見八犬伝』をモチーフに描かれる。作品の中での現在である江戸時代と、作品の中で語られるタイトルにもなっている物語、二つの時間軸で進んでいく不可思議な夜たちの記憶。
 人間に混じって生活している犬人間、伏。狩る側の主人公は少女浜路、狩られる側の主人公は青年信乃。伏の狩りについて善悪が描かれていないことが、この作品における世界観を深めている。人間は伏に殺されるかもしれない。残虐な殺し方をする男が出てくる。伏は長く生きられない。まだ容姿の幼い子も狩られる。殺すか殺されるかというまさに命懸けの存在だが、この作品の中で登場人物が善悪を根拠に動くことはない。その時々の感情、自分の信条に基づいて動くのである。三人称で描かれるため、各登場人物の内面についての詳しい描写は多くない。それでもそれが読者には推測できる。
 作中作では伏たちの先祖について語られるが、それは壮絶なものである。名付けてはいけないとされる森の近く、豊かな土地の夜毎呻きが聞こえる城、美しい姉と醜い弟。伏という名は姫――この姉のものであった。幼い頃から男勝りで家臣たちからの人気もあった姉に、男でありながら内気だった弟は羨望と嫌悪の念を抱いていた。彼は美しいものに人一倍敏感で愛でる心を持っており、その心で惹かれたのか、白く美しい犬を拾う。しかしその犬は姉に奪われ、ますます嫌悪を募らせる。姉はその犬に跨って戦場ごっこをし、弟は人形遊びに興じた。しかし戦乱の世である。豊かだった土地が戦火に巻き込まれる。籠城を余儀なくされた城主は姫の犬に、敵将の首を取ってくれば代わりに姫をやると囁く。無論本気ではない。戯言である。けれど紛れもなく、希望は籠っていただろう。そして犬は約束を守った。時代と約束に翻弄された姉弟はここで初めて離れ離れになる。美しい犬に跨った美しい姫は森の中へ消えていき、そこで結婚して暮らす。
 城主となった弟は幼い頃の姉のように戦場で刃を振るった。後に姫は保護されるが、人としての思考は持たないままに子を産み落とした。その子らの子孫が現在の伏だというのである。浜路に話を語る信乃はこの森へ伏の仲間と赴き、「伏の森」と名付けた。名付けられた森はもう存在しないという。
 作品全体を取り巻くのは作者の特徴ともいえる独特な、どこか現実離れした雰囲気を醸し出す世界観だ。物語が展開する速さは遅くないが、妙にゆったりした、深呼吸をしているような空気が流れている。狩る者と狩られる者の間に生まれる形容しがたい情の結びつきは「狩りをやめる」ということにはならない。少女は青年を狩るため追うのだし、青年は狩られないため少女から逃げるのだ。姉と弟が光と影であったように、そしてそれが逆転したように、少女と青年もそうなのだ。きっかけは言葉になるだろう。伏の森は名を付けたことで消え、姫は約束のために犬と結婚した。言葉を交わした時点で少女と伏の結びつきは決定付けられていた。善悪も優劣も語られない。そのため登場人物の関係や考え方を言葉で表すことは難しい。読者に想像する隙間が与えられている。だからこそ言葉が丁寧に紡がれ、その力が明確に示されるのである。

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