遠野物語remix

  • 『遠野物語remix』

  • 京極夏彦×柳田國男
  • 角川学芸出版
  • 1,470円(税込)
  • 2013年4月刊
  • 日本民俗学の創始者・柳田國男の「遠野物語」を、読みやすく、分かりやすく、そして面白く。“怪異”作家と謳われる京極夏彦の手で今、新たな「遠野物語」が紡がれる。

それは、"確かに在る"もの

推薦文No.10-1
大東文化大学國文學研究会

 "遠野物語"とは何なのか。まず、それを知って頂く必要があるだろう。
 "遠野物語"とは、明治時代の民俗学者である、柳田國男によって著された説話集である。同時代の作家である、佐々木喜善によって語られた、"遠野"という地に纏わる民話、それに興味を示した柳田が編纂したものなのだ。つまり、本書で語られる奇怪な出来事、その全てに偽りはないということだ。実在は兎も角、偽りはない。
 全部で119にもなる奇譚の数々。それを京極夏彦が、現代の我々にも解し易く、しかし、元の文章の魅力を損なわぬよう、生まれ変わらせたのが、本書、"遠野物語 remix"なのである。

 私が本書を読み解く際、常に頭の隅を霞める疑念があった。「これは創作ではありはしまいか。いや、偽りはなくとも、錯覚の類を異境のものと勘違いしているだけなのではないか」。実に、現代的な発想ではないだろうか。我々が暮らす現代は、物理至上主義的な側面が強く、こういった怪異の類に対する当たりは厳しい......というよりは、受領する様式に仕上がっていない。現実として、「ヤマハハや天狗が存在したか」、という問題はどうでもよく、「存在していると信じられた。ではそこからどういう習俗が出来上がるのか」等の分析をするのが、民俗学的な接し方であり、ある意味、最もストレートな接し方であるのかも知れない......が、私にはそういった思考は適わなかった。私は、薄ぼんやりとした疑念を拭えずに、本書を紐解いていったのだ。しかし、ある時に一つの発想に至った。
 そもそも怪異の類は、当事者以外の者の再確認が適わないことが殆どである。その為、こういった奇譚は、全て伝聞に依ってしか出来上がり得ない。そこに信憑性など在りはしまい。しかし、考えてもみると、これは物語と同じ様相を呈しているのだ。伝聞を聞く側にとって、その真偽を確認する手段は皆無に等しい。そうであれば、それはそれとして受け取る他にない。これは本を読む我々の構図と同じではないか。多くの読者は、物語を受け取れる様に受け取り、考え、想像を膨らませ、喜び、恐怖し、悲しみ、感動する。そこに真偽を問う余地はない。
 このことに気がついた時、私は「面白い」と心から思えた。遠野物語で語られる奇譚の数々。その全てが、ある種"文学的"であるのだ。この説話集を読んで、私は確かに"遠野"という実在の、しかし未だ足を踏み入れたことのない地に、思いを馳せた。
実際に人が暮らす、その土地で起こる不思議に興味を惹かれた。その時の私にとって、事の真偽は二の次であった。

 私は今、"遠野物語"の推薦文を記しているが、"遠野物語"もまた、柳田國男による"推薦文"なのではないだろうか。一つ、引用させて頂こう。

 このような奇妙な話を聞き、またこのような魅力的な土地を訪ねた後で、自らが得た見聞を他者に語らずにいられる人が、果たして存在するだろうか。そこまでして沈黙を守る、寡黙で慎み深い人間は、少なくとも私の友人の中には一人もいない。

 他者に語らずにはいられない。これは意志である。「語りたくて仕方がない」という欲求であるし、「語らなければならない」という使命感でもある。実際に土地を訪ね、学者として研究を重ねた柳田であれば、尚更、この気持ちは強かったに違いない。無視すれば無視することも出来た、この奇妙の数々。それは確かに存在していたのだ。それは"習俗"という形で生きているのだ。それは、無かったことにしてはいけないものなのだ。
 京極が、"遠野物語 remix"として、現代に合う形に生命を吹き込んだのは、そういった意志の表れなのではないだろうか。彼もまた、"語らずにはいられなかった"のではないだろうか。
 私もまた、"語らずにはいられなかった"。一人でも多くの人間が、この奇妙に触れ、遠野の地に思いを馳せることを切に願い、筆を置くことにしよう。

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