金平糖の降るところ

  • 『金平糖の降るところ』

  • 江國香織
  • 小学館文庫
  • 700円(税込)
  • 2013年10月刊
  • 達哉と幸せな結婚生活を営んでいた佐和子は、突然離婚届を残して故郷ブエノスアイレスへと旅立つ。佐和子、ミカエラ、アジェレンの三人の女性の視点から描かれる恋愛小説。

土のなかの金平糖

推薦文No.8-1
中央大学文学会

 これは何を描いた物語なのだろう。背表紙をなぞって嘆息する。腰帯の「愛」と「恋」を数えてみたら、11個もあった。愛の物語なのだろうか。そうやって売り出されているのなら、そうなのかもしれない。これは姉妹とその保護者の「愛」を、妻子もちの男と部下の娘の「恋」を、描いた物語なのかもしれない。すこし、考えてみる。

 たとえば、佐和子とミカエラと達哉の話。佐和子とミカエラは姉妹で、達哉は佐和子の夫だ。佐和子は達哉にたくさんのガールフレンドがいることを知っている。以前ミカエラと関係を持ったことも。でも、ガールフレンドとは無関係に、達哉への、おそらく愛故に、佐和子は愛のない男と一緒になる。そこに葛藤は見えず、自然に、さらりと。ミカエラは達哉を求めながら、でもそれは愛ではないという。「愛ではないその何かが、愛より劣るものだと誰に言えるだろう。」と、ミカエラは思う。
 そしてたとえば、アジェレンとファクンドの話。ミカエラの娘アジェレンは、ミカエラよりずっと年上の上司で妻子持ちのファクンドと、恋におちる。アジェレンはファクンドをすべてだと感じる。ファクンドも。会えない日は自分がからっぽになる。会っているときは感動に胸がうちふるえる。盲目的な愛。でも、アジェレンはファクンドとその妻の別れを望まない。ファクンドも、アジェレンを愛していながら妻と別れようとはしない。

 うーん、難しい。出来事だけをのべていくと、それはあまりに理解の範疇をこえた人達の感情のように思える。私たちが「愛」ときいて想像するものとは、到底かけはなれている。でも、なぜだろう。わたしは姉妹で恋人を共有したりはしないし、浮気を許したくはないし、妻子もちの祖父の年齢に近いママの上司と関係をもったりはしないだろうけれど、彼女たちがとてもよくわかる。読んだ人なら皆わかってしまうのではないだろうか。

 佐和子を、愛より尊厳を選んだだとか、アジェレンの純粋すぎる愛を恋だからだとか、そういう風にいってしまうことは簡単だけれど、その表現をすることでこぼれてしまったものたちが、私たちを共感させる。彼女たちの情念や執着は、愛だとか恋だとか、そんな陳腐で甘やかなことばに当てはめられるのを拒み、そこで息づいている。この物語には唯一無二の永遠の愛も、それにつきまとう美しい悲しみも登場しない。でもこれはたしかに、「愛」を描いた物語なのだろうと思う。常識や固定観念をとびこえ、ひとりの特別な人間に、特別な感情を抱いてしまった人たちを、純粋に描いた物語なのだろう。

 「愛」って何だろう。それはある時はすべてのような気がして、ある時はその他のものに優先しないもので、すごく歪で醜悪だけれどそれが透き通って美しかったりする。この物語を読み終えて、愛というものが、形をもってむくりと起きあがったみたいだ。そしてどうやら、愛とよばれがちなあの感情たちは、言葉になったり論理的に説明できるものじゃないらしい。
 この物語を読んで気づいたのは、歌や小説や映画、昔からたくさん扱われ続けて、分かったようになっていた、手垢にまみれた「愛」だけれど、どうやら私たちはそれを全然分かっていなかったみたいだということだ。ちょっと考えないと、いけないのかもしれない。考えてみてほしい。この物語を読んで、彼女たちの生身の感情にぶちあたって。愛について。その力について。

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