死んでしまう系のぼくらに

  • 『死んでしまう系のぼくらに』

  • 最果タヒ
  • リトルモア
  • 1,296円(税込)
  • 2014年8月刊
  • 「死者は星になる。だから、きみが死んだ時ほど、夜空は美しいのだろうし、ぼくは、それを少しだけ、期待している。」日常の中の「死」。その意味を愛おしく掬いとった詩集。

タヒがぼくらを殺しに来ました

推薦文No.7-2
早稲田大学 現代文学会

 最果タヒという詩人・小説家ほど、wikipediaが役に立つ(http://ja.wikipedia.org/wiki/最果タヒ)人も珍しい。モノグラフが書かれるにはまだ尚早だが、熱狂的なファンによる文献リストが目を引く。もちろん、気になれば本人のブログや詩人・小説家としての専門ウェブページを参照するのも良いだろう。
 これらを読むと解るが、最果タヒは2008年に中原中也賞を21歳で受賞した天才詩人だったのでむしろこれほど『死んでしまう系のぼくらに』がヒットしたのは驚きに値しないかもしれない。この文章は最果タヒの第三詩集『死んでしまう系のぼくらに』について推薦するものなので本のこと、内容のこと、推薦されるべき理由について以下では書いていくことにする。

 高橋源一郎は「最果さんは、みんなとみんなが住んでいるこの世界を見つめて詩を作る。そして、それを、ぼくたちみんなに、届けてくれるんだ。」と帯に書いているがこの本は「届けてくれるんだ」と言ってしまえるほど優しいものではない。
 そこでやりとりされるのは、大抵が愛と何よりも憎悪についてだ。例えば、「君は凡庸。凡庸はしね。」(「凡庸の恋人」)とか。このメッセージは人間どうしだけにとどまらない。「女の子の気持ちを代弁する音楽だなんて全部、死んでほしい。」(「香水の詩」)、「(さみしさがいつかきみを殺す。)」(「冬の長い線」)などなど。
 「死ね」だの「殺す」だのが乱発されている印象さえも受けるが読み終わってみると意外にすっきりとした気分になる。それはそれらが「好き」という言葉と相補関係にあるからだ。
 誰かを好きになるけれど、その人はいつか死んでしまうし、あるいは恋愛関係は終わるかもしれない、ならいっそ死んでしまえ、殺してやる、という自分勝手な思いをひたすら磨き上げていけばこの詩集に入っている詩ができあがる。
 だとすれば、この詩集はかなりつまらないテーマで書かれているから果たして推薦に値するか怪しいと思われるかもしれない。ただ、そういう人が解っていないのは、陳腐なテーマが陳腐化するためには多くの人がそれを当たり前の出来事と思わなければならず、自分がその当たり前の出来事に直面した時、やっぱりあたふたしてしまうことだ。
 本気で好きな人を殺したいと思うかもしれない可能性を極限まで問い詰めていき、あらゆる事物やシチュエーションにおいてそういう感情を再現するのは至難の業だ。なぜなら、やってくるかもしれない出来事を自分の言葉に置き換えて、それによって自分以外の誰かの曖昧な感情に輪郭を与えることは本当に困難なことだからだ。最果タヒの言葉が優れていて、そして、その殺意が美しく見えてしまうのは、結局この本を読めてしまう人が、その言葉によって世界と自分と自分が前に見すえている人の位置を説明する言葉を適切な長さで与えられたからだ。それは共感に似ているかもしれないが、共感である必要はない。共に感じるより、ひとりで考えて語るほうが大事だと、詩には書かれている。「だれでもいいような、世界にでていくのだから、だれでもいいような、気持ちで愛を語ってごらんって。」(「渋谷」)。

 最果タヒの詩は難解ではないが簡単ではない。1200円を払ってセンチメンタルに浸るための商品ではありえない。ましてやポップだのネット世代たる若者の感情の代弁などもってのほかだ。リルケは平素気にもしない物のポテンシャルについて書いたが、この詩の評価はそれに関わる。「私たちがよそよそしく通り過ぎた一日が/未来で決然として贈り物になる」(「ほとんどすべての物から」)。そして、この詩の最後で詩人は「私は恋する者となった」と告げる。つまり、当たり前のことについて語って未来の贈り物を示す者は恋する者になるのだ。それは最果タヒのことだろう。だからこの本は読まれるのだ。

推薦文一覧へ戻る

最終候補作品

候補作品