夏の塩

  • 『夏の塩』

  • 榎田ユウリ
  • 角川文庫
  • 562円(税込)
  • 2014年7月刊
  • 「魚住ってさ、どっか壊れちゃってんのよね」不幸な生い立ちと壊れた心を持つ美青年・魚住真澄と彼の周囲の人々の、喪ったり回復したりする様を描いた青春群像劇。

幸せの味

推薦文No.14-1
立教大学 文芸批評研究会

 たとえば。
 親に捨てられ、幼いころから色んな場所をたらいまわしにされて。
 自分を受け入れてくれる家族に出会うも、彼らは交通事故でいなくなり。
 自分の周りから人がいなくなることが日常的になって。
 果てには味覚を無くし、性的に不能となってしまうような。
 話を聞けば、まず何よりも先に「ああ、可哀想に」という言葉が出てきてしまう、そんな人生を送ってきた人。
 そんな人が、そんな中で、ようやっと掴んだ"幸せ"というものは。
 いったい、どんな味がするのだろうか。

 魚住真澄。25歳。男性。大学院生。細菌学の研究室で日々研究を行っている。かなりの、いや、ものすごい美人。誰もが羨む美貌を持つ彼は時に天使とすら呼ばれることもある。
 だが、彼の境遇、人生はおよそ天使から程遠いものだった。
 当人にこれといった自覚はないが、魚住は限りなく運の悪い人であった。彼の人生は喪失の連続だ。何かを得ても、それはすぐに目の前から消えてしまう。"幸せ"なるものを手にしても、全部を味わう前に取り上げられてしまうのだ。
 故に歪んでしまったのが魚住真澄という人間であった。しかも、歪むといっても、グレるとか、そういった分かりやすい方向にではない。
 喪失を喪失だと考えない。
 傷ついたことを認知しない。
 身体の傷にも、心の傷にも。果ては己の生死、自己そのものに対してすら鈍感に。
 そういった方向に歪んでしまったのだ。
 彼にとって、記憶は曖昧なものだった。
 幼少の頃過ごした施設。何回も変わった親。初めて愛を教えてくれた家族。
 どれも結末は辛いもので、だからこそ、全て心の底に閉じ込めて、なかったことにしてきた。
 そうして彼は、泣き方を知らない大人になった。

 本書で始まる<魚住くんシリーズ>は、そんな魚住真澄の、再生の物語だ。
 彼を導くのは、彼の不運さを気にも留めない、呆れるくらいに無神経な一人の男、久留米充。そして、友人のマリ、サリーム。研究室の同僚、濱田に元カノの響子。
 久留米に、彼らに支えられて、見守られて、魚住はこれまでの道すがら失ってきたものを拾い集めていく。少しずつ前へと進んでいく。
 
 希望の旅の第一歩、初めに彼が取り戻したものは、味覚だった。
 魚住の味蕾を刺激した「夏の塩」。
 それはきっと、彼にとって、これから始まる"幸せ"へと続く味であるに違いない。

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