降矢ななのスロヴァキア通信

中央ヨーロッパの小国、スロヴァキア共和国在住の絵本作家・降矢なな、初の月刊エッセイです。‘92年に同国のブラチスラヴァ美術大学へ留学して以来、紆余曲折を経て(笑)、現在はペジノックというワインの産地の街に、スロヴァキア人で画家の夫と7歳の娘と共に暮らしています。スロヴァキアからの便りをどうぞお楽しみください。

第5回 お月さま

お月さまは不思議です。娘が1歳半くらいのころ、空に月を見つけると「おつきさま」とうれしそうに小さな人差し指をつきだしていました。近くに何本も街灯が光っている場所でも、迷うことなく月を見つけるのです。今でも娘には、月、特に満月は特別な存在です。今年の雛祭りは満月でした。隣の家の屋根の上に姿をあらわした輝く月を見つけ、「ママ、こっちきて。見て、見て!」と私を呼ぶと、うれしさを分けてくれるかのように「まんまるでしょ」と言うのでした。

部分月食

月の半分以上が地球の影と重なった部分月食の状態。

去年、一時帰国からスロヴァキアへ帰ってくる日も満月でした。私の乗ったオーストリア航空は、成田空港を昼の12時ごろ出発、ウィーン空港にその日の夕方16時に到着します。飛行時間は12時間弱なのですが、日本とオーストリアの時差は8時間(冬期)、飛行機はシベリア上空を西へ向かって飛ぶので、お昼に日本にいた私がその日の夕方ウィーン空港に立っているというマジックが可能なのです。

飛行機は太陽を追って飛び続けるので、乗客は12時間の昼を旅しています。外はずっと明るいのですが、その日は飛行機の窓から、雲の海の上にくっきりと白い月が見えました。どうやら飛行機は地球の回転速度より速く飛んでいるらしく、月はゆるゆると遅れて、私の視界から消えていってしまいました。ウィーン空港から車で約1時間半、ペジノックの我が家の玄関先に立ち空を見上げると、さっき追い抜いた満月がスロヴァキアの空にうかんでいます。約束の時間に遅れそうになって走ってきた友が、息切れをかくしてすました顔で立っているようで、私は何だか可笑しくなってしまいました。

雛祭りの夜中アトリエで絵を描いていると、ペテル(夫)が私を呼びます。バルコニーに招かれて空を見上げると、半欠けの月が...。今夜は満月のはずでは??......「月食?!」。急いでインターネットで調べると、今日はヨーロッパで皆既月食が見られる稀な雛祭りの夜であることがわかりました。午前0時少し前に月は完全に地球の影と重なり、40分ほど赤い満月になるのです。陰にかくれると消えるのではなく赤くなるなんて、私は初めて知りました。

皆既月食

スロヴァキアの夜空に浮び上がった皆既月食の姿。完全に地球の陰に入ってしまっている。


ペテルは大急ぎでカメラと三脚をバルコニーに運び出し、撮影の準備。あいにく大風の晩で、三脚が倒れないか心配です。夜空にはきれぎれの雲が欠けはじめた月をかすめて横切り、風の吹いてくる方角の空には重苦しい雲の塊が見えていました。私は上着を運んできて、娘を起こします。
「七海ちゃん、起きて! 満月じゃないんだよ、起きて! さっきはまんまるだったでしょ!」。
ぐっすり眠っている娘はぐにゃぐにゃで、やっと目を覚まさせてベットの横に立たせ、パジャマの上からコートを着せてバルコニーに連れて行き、月を指し示しながら、
「ほら、満月じゃないでしょう?」。
娘は手すりに寄りかかって虚ろに空をみあげながら「うん......」とか言っています。今度はその娘をパソコンの前に連れていって、Webサイトの写真や図解を見せながら、月食のシステムを説明し、
「もう少ししたら赤い月になるの。七海ちゃんも赤い月見たい?」
「...うん...」
「じゃ、赤くなったらまた起こしてあげるから、それまでベッドで寝ていなね」
「...うん......」
バルコニーのペテルは、シャッタースピードの操作で苦労していました。その間も月は確実に細くなっていきます。雲の密度はどんどん増えてきて、しまいには月食で月が暗く見えるのか、雲にさえぎられて見えにくくなっているのか、わからなくなってしまいました。おまけに雨粒までパラつきはじめ、私たちはとうとうバルコニーから撤退しました。

ペテルはさっそくカメラをパソコンにつなぎ、撮影のチェックです。モニターに現れた(部分)月食の写真は不思議な姿をしていました。
私は思わず「エンブリオみたい」。 苦労して撮影したペテルは内心複雑な気持ちだったでしょうが、宇宙に浮かぶ月の姿が細胞分裂を始めた受精卵のように見えたことに、私は心がざわめくような畏敬の念を感じていました。

おつきさまこんばんは。あなたはちょっとまえまで日本の上空にいらっしゃったのですよね・・・

写真をチェックした後、試しにもう一度バルコニーに出てみると、頭上には赤い月がかなりはっきりと見えるではありませんか! ペテルは再びカメラと三脚を運び出し、私は大急ぎで娘を起こしにいきました。しかし今度はまったく目を覚まさず、断念。私はバルコニーへ戻りました。近所の家々の窓にも月を見ている人の影が動いて見えます。

くすんだサーモンピンクの月。どうして地球の陰に入るとこんな色になるのだろう...。赤い月を見つめながら、私は今描いている油絵の月の色を塗り直そうと思っていました。月夜の狼の絵です。

翌朝、朝食の席で昨夜の話をしていたら驚いたことに、娘はまったく何も覚えていない、と言うのです! バルコニーに行ったことも、パソコンを見て月食について説明してもらったことも...。
教育熱心な親バカもほどほどにしなさい、ということなのでしょうね、ほんとに。

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降矢なな(NANA FURIYA)

1961年東京に生まれる。スロヴァキア共和国のブラチスラヴァ美術大学にてドゥシャン・カーライ教授に師事。石版画を学ぶ。主な絵本に「めっきらもっきらどおんどん」「ちょろりんのすてきなセーター」「ちょろりんととっけー」「きょだいなきょだいな」「おっきょちゃんとかっぱ」「あいうえおうた」「ねえ、どっちがすき?」「まゆとおに」「まゆとりゅう」(以上福音館書店)、「赤いくつ」(女子パウロ会)、「おれたち ともだち!」シリーズ…9月に最新刊「きになるともだち」刊行(偕成社)、など多数。

降矢なな作品コレクション

  • ともだちおまじない
    『ともだちおまじない』
    文/内田 麟太郎
    絵/降矢 なな
    1,260円(偕成社)
  • めっきらもっきらどおんどん
    『めっきらもっきらどおんどん』
    作/長谷川摂子
    画/ふりやなな
    840円(福音館書店)
  • ともだちや
    『ともだちや』
    作/内田麟太郎
    画/降矢なな
    1,050円(偕成社)

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